夏の気配よ、麦の香りよ
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姑獲鳥の夏を読んだ
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夕方の気温が涼しくて、絵に描いたような、夏の夕暮れだった。
鬱陶しい湿度も、心身奪って行く気温も、突き刺す陽射しも。どれも憂鬱なのに、それでも日本の夏は良い。
立体的な雲が高くまで登っている。蝉の鳴き声が窓辺から聞こえて、時々気が向いたように入ってくる涼しい風に「夏だなぁ」と感じるのである。
いつかの夏休み、縁側で聴いた風鈴の音が恋しい、と思いつつ数年経った。
窓にでも付ければいいのだけれど、今の家で聞くそれは何となく違うような気がするのだ。何かって言えば、まぁ何となく。
田舎の匂いと、ぬるいスイカと、縁側の木の床。そこにある風鈴の音がいちばん好きだ。
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いつだか、たぶん、2年くらい前かもしれない。
ケーキを買いに行った帰り、地図を調べたら森を抜けると近道があるらしかった。
案内の通りに歩けば、それはどうやら墓地の通路のようだった。
頭上を覆うように木が鬱蒼と茂り、その隙間から木漏れ日が刺す。じっとりとした夏の気温、石造りの階段の手摺は赤いパイプで、その脇には紫陽花が植えられている。
風に乗って風鈴の音が聞こえてきた。音の方に目を向けると、それはどうやらお寺の軒先に付けられたものらしかった。
夏だ。
条件反射のようにそう感じた。軽やかな風鈴の音が響く。眩しさに、俯いて階段を登っていると、小さな影が目の前を横切った。
つられて顔を上げれば、揚羽蝶がひらひらと飛んでいる。
遠くで、子供の笑い声が聞こえた。
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些細な記憶なのだが、今でも鮮やかに思い出せる。
とても平穏で、まるで浄土のようだなと思ったくらい、綺麗な夏の光景だった。
もっとも、別に特別な場所ではなくって、その後も何度かその道は通っている。何せその時に行ったケーキ屋さんというのがとても美味しいので、度々伺っているから。
それでもやはり、あの夏の風景がいちばん綺麗だったなと、歩くたびに確信するのであった。
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小説を読む事は昔から好きだったのだけれど、京極夏彦は名前ばかり聞いてはいたが今までいっさい読んだ事が無かった。
別段理由も無くて、なんとなく、読むのが難しい小説っぽいなぁ。という根拠ない偏見を持っていたからかもしれない。
何故か勝手に、私の中では京極夏彦の小説は「ドグラ・マグラ」と同じ類の物だと思い込んでいた。いやほんとに何故なのか。
まぁ、目が疲れるのは嫌かなぁ。という位に思っていたのだけど、つい先日「面白いよ、夏のうちに読んだ方が良いよ」と教えてもらった。
成る程、夏だものなぁ。
安易な人間なので、すぐにそそくさ本屋に向かい買ってきた。
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「胎児が二十ヶ月も胎内に居られる訳が無い」
みたいなキャッチコピーだったと思う。昔映画館で見た、姑獲鳥の夏のポスターに書かれていたのは。
あれから、まぁ何年経ったのかは分からないのだけど、大分時間が経って尚、そのフレーズが印象深く残っていた。
結局その映画を見た訳では無かったので、此度姑獲鳥の夏を読んだおかげで、長年を経ての答え合わせとなったのである。
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喫茶店に行った。人が少なくて、珈琲が美味しい所を選んだ。
京極夏彦を読むために。
結論から言うと、とても楽しい読書体験をした。とても良質なものを。
まったく根拠の無い私の苦手意識は、事実まったく根拠が無かった。
姑獲鳥の夏はむしろ、極度に読み易くて、エンタメ小説として驚くほど優れていた。
つまり、めちゃくちゃ面白かった。
あの夏の陰鬱さや、色白な美女の憐憫とか、オカルトや怪談的な不可思議な不気味さ。それらが娯楽としての木枠の中に姿勢よく収まっている。
みたいな感じだった。
文を読むのは概ね常に楽しいが、良い文だとより楽しい。
良いものを教えて貰ったなぁとしみじみ思っている。
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次は魍魎の匣が読みたい
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船路の行方を知らぬ
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私達の魂って、どこへ行くのだろう。
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身体は泥舟のような物で、魂とはその動力のようなものだと思っている。
人生、とか、時間、とか言う暗く長い川を流れて行く。
気が付けばその水面に浮かんでいて、勿論行く先は知らない。
それはみんな平等で、どこへ行くんだろうなぁ、なんて言って波に揺られてるうち。泥舟は少しずつ崩れて沈んでいき、やがて動力として燃えていた炎も、水底に消える。
きっとこれが最期と言うもので、ごく一握りのひとだけが、この船旅の終着点を見ることができるのだ。
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話は変わるが、棺桶が好きだ。
できるなら部屋にひとつ、いや、みっつ位欲しい。
何がそんなに良いのかと聞かれれば、正直自分でもはっきりとは分からない。
例えば、ヴァンパイア的なゴシック的な様相であったり、生きている内に滅多に触れ合わぬ非日常感であったり、あのシルエットの可憐さだったり。その辺り、適当な事は上げられるけれど、どれもぴったり適切な訳では無い気がする。
棺桶と言う、ひとの亡骸を収める箱の一体なにが、私をこんなにも惹きつけるのだろう。
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ひとつ言うのなら、タナトスに焦がれている。
と言えば、洒落ている風に聞こえるかもしれない。というか、むしろ厨二病っぽく聞こえる気もする。まぁ致し方なし。
タナトスに焦がれている。今に始まった事ではなく。
人は生まれ落ちると、死へと向かって流れてゆく。川の流れは常に一方通行で、人ごときには争いようも無い。
波に泥舟を崩されながら、あくせくと踠き、それが無意味だと気がつく事すらできない内に轟沈する。
結局は、人生とは沈みゆく結末の決まった悲惨な旅路なのだ。と、そう考えているもので。
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それなら、脆く歪な泥舟をさっさと棄てて、動力の炎が赤々と燃え盛るうちに絶えてしまいたい。と、思うのも別におかしな事でも無いと思う。
どれだけオールを漕ごうと、惰性に船旅を続けようと、その末路は全て同じくである。
タナトスを船に招くなら、どうせなら、乗り心地の良い内の方がいいじゃない。
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棺に惹かれるのは、つまりこの辺りの感覚が大きいのだと思う。おそらくね。
棺桶とは、崩れ落ちた泥舟からその魂を掬い取って、ただしく収めるための寝具なのだ。
もしかしたら、天界やら極楽やらへの旅路で、船として役立ってくれるのかもしれない。天にも登る乗り心地、なんて言ったりして。
棺の蓋を開けば、そこにタナトスが横たわっているような気がする。
その吐息を感じてみたい。
だから、私の部屋には棺桶がひとつ、と言わずみっつ位必要なのである。
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揺り籠から墓場まで。
葬儀ではデデマウスをかけてくれ。
- - - - - - - - - - mirror ball closet
ミラーボールクローゼット
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クロゼットの扉を開くとミラーボールが回っている。
狭い壁には姦しいライトの反射が写る。
人ひとり入るのがやっとかと言うスペースに、ミラーボールは堂々と空間に陣取っていた。
身体を揺すぶるようなBGM。
アルコールが回ったみたいな不思議な酩酊感。
ランダムな反射光が角膜を突き刺す。
ダンスクラブが、クロゼットの中に生まれていた。
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